プロフィール|40代で画家へ転身

はじめまして、UDAと申します。

わたしは独学で絵を描き始め、40代で画家に転身しました。

現在は、作品制作・販売・情報発信などを中心にアート活動しています。

生い立ちから幼少期

ルーツ

わたしは東京の江戸川区という下町で生まれました。

父・母・姉・妹に加えて、父方の祖父と祖母も一緒に暮らす、サザエさんのような古い家で育ちます。

友だちと遊ぶのも好きでしたが、絵を描くのも好きで自作のマンガなどをよく描いていました。

ある日、友だちがいわゆるヤン車を特集した雑誌を持って家に遊びにきます。

当時は「シャコタン・ブギ」とか「湘南爆走族」とか、ツッパリものが流行っていたんです(笑)。

みんなでハガキに絵を描いて投稿コーナーへ送ってみると、なんと自分の絵が掲載されたのです。

後日、景品の「ぶっちぎりステッカー」が送られてきて、嬉しくて自転車に貼ったのを覚えています。

自分の絵が区内で金賞受賞

小学生2年生のとき、朝礼で校長先生が話していると、なんだか自分の名前が呼ばれているような気がしました。

「そんなわけないよなぁ」と思っていたら、担任の先生が来て校長先生の前に連れて行かれ、賞状を手渡されたのです。

夏休みの宿題で描いた絵が、区内で金賞を受賞したとのことでした。

なんのことだかさっぱりわからないまま教室へ戻ると、担任に「賞状は両手で受け取るのよ」といわれ、怒られたような感じで、ますますなんのことだかわからなかったです。

受賞した絵は区内の総合センターに飾られ、家族で見に行きました。

飾られている絵を見てもなんだか恥ずかしかくて、その場から早く離れたくて仕方なかったのを覚えています。

学生時代

中学生で自分の苦手なことを意識する

当時の中学校はわりと荒れていました。

運動がそれほど好きではないのに周囲に流されてサッカー部に入ります。

区内では強豪校で、上手くなりたいと思っていないわたしは当然のごとく補欠でした。

また、運動部特有の縦社会や団体行動が苦手だとわかり、3年生になって退部します。

サッカーよりもひとりで絵を描くほうが好きでしたが、絵の具は苦手でした。

美術の授業で鉛筆では上手く描けたと思っても、絵の具で塗ると台無しになるので「いやだなぁ」と思っていました。

高校生で音楽に傾倒

高校生になるとロックを聴くようになり、バイト代で安いエレキギターを買います。

影響を受けると、すぐにやってみたくなる性分なのです。

ちなみにですが、その頂点にいるのがみうらじゅんさんだと思っています。

しかし、みうらじゅんさんのように長続きしません。

少し弾けるようになると満足し、それ以上やり込むことはなかったのですが音楽に傾倒していきます。

ヒップホップにはまり音楽活動するも挫折する

ライブ・音楽制作に没頭

成績も悪く、大学進学なんて考えていなかったどころか、先の人生について考えたこともありませんでした。

しかし、進路を決めなければなりません。

わたしは、ぼんやりと「美大に行きたいなぁ」と思いましたが、姉の「普通の大学より難しいよ」の一言で諦め、社会に出ることから逃げるようにSE系の専門学校へと進みます。

親には申し訳ないのですが、学校はなんとなく決めただけで不真面目な学生生活を送っていると、日本のヒップホップに出会います。

今でこそラップが音楽チャートの上位に入ったりしますが、当時は好きな人しか聞かないジャンルでした。

高校の友人がどこかからターンテーブルを手に入れて来たこともあり、憧れに忠実なわたしはラップをやり始めます。

生まれて初めての挫折

仕事をしながら音楽活動を続けるものの、ライブでは毎回飲み過ぎて歌詞が飛ぶなどいい加減でした。

仲間内で毎月イベントを主催するも客入りは悪く、結局のところ誰も本気でやっていなかったことがわかります。

いい加減なくせに若者の特権でもある「夢」を握り締めていたわたしは、人生で初めて挫折します。

そもそも内気で目立つことが苦手なはずなのに、人前に出てラップをするのはまったく向いていませんでした。

むしろ、部屋でじっくり歌詞を考えたりトラック(音)を作ったりしているほうが性に合っていましたが、そういう自分を克服したいと意地になっているところもありました。

そのころは自覚していませんでしたが、わたしは自己肯定感が異様に低く、自信がまったく持てない性格で、今もそれほど変わっていません。

一人旅で渡豪し価値観・世界観が広がる

ワーキングホリデー制度を使って渡豪

仕事が忙しかったので、やりたくもないことをやっている時間をすべて費やしたらとっくに成功していたんじゃないのか、などと勘違いして28歳で仕事を辞めます。

しかし、挫折したという意識の影響は大きく、なにをしていいのかよくわからなくなりました。

そんなとき、ワーキングホリデー制度があることを知ります。

いくらかのお金と時間のあったわたしは、「今しかできない」と思い、海外への一人旅を計画します。

誰に相談することもなく手続きを進めて、ひとりでオーストラリアへ渡りました。

さまざまな価値観に触れて世界観の狭さに気づく

高校生のとき、英語のテストで6点を叩き出すほど英語はまったくできませんでした。

しかし、オーストラリアで始めの2ヵ月くらいは英語のスクールに通うつもりだったし、目的は旅なので「まあ、大丈夫でしょ」と楽観していました。

もちろん海外で生活することに不安はありましたが、ワーキングホリデーの年齢制限が当時は30歳までだったので、「海外で一人旅をやるなら今しかない」という想いのほうが強かったのです。

実際、英語圏で暮らしてみた結果、英語は勇気といわれる意味がよくわかりました。文法を気にしていたら英会話は上達しません。

海外の生活は毎日刺激的で、さまざまな考え方や生き方に触れ、自分がどれほど自由であり、どれほど狭い世界観で生きていたのかということを思い知ります。

また、これまでほとんど触れてこなかった小説を読むようになります。

1年間の海外生活は、その後の自分の人生に大きな影響を持つ貴重な経験となりました。

しかし、帰国してからの先はまったく見えておらず、「生きていけるのかな」と本気で悩んでいました。

絵を本格的に描き始めたきっかけ

帰国後、二回目の挫折

帰国後、「興味を持ったらやる」という単純なわたしは、小説家になろうと思いました。

ラップをしていたときに歌詞を書いていたので、文章を書くということに抵抗はありませんでした。

フリーペーパーなどを発行している制作会社でアルバイトをしながら、小説を書いては新人賞に応募する生活を送ります。

が、どうにもならず、自分に物語をつくる才能はないと2回目の挫折を経験します。

ひとりで勝手に挫折しているだけなのですが、傍から見ればそういうものなのかもしれません。

小説は無理だが、詩は書けるかもしれない。まだ自分に期待しているわたしは詩作に走ります。

感情を端的に表現できる詩は歌詞に近く、小説のような長い物語よりもしっくりきました。

「ユリイカ」という雑誌の新人コーナーに送ってみたところ入選し、選者からコメントをもらえましたが、だからといってどうにもなりません。

しかし、今から思えば、詩を書くことによってストレスや不安をやわらげていたのだと思います。

ゴッホの絵を見て感銘を受ける

大人になってから絵を描くことはなくなりましたが、絵を見ることは好きでした。

2010年に新国立美術館で「没後120年 ゴッホ展」が開かれ、ゴッホが生で見れるのかとすぐに出向きました。

ゴッホの作品を初めて生で見たわたしは、心を鷲掴みにされます。

とくに「サン=レミの療養院の庭」に衝撃を受けたのを覚えています。

「サン=レミの療養院の庭」出典:amazon.co.jp

なんといったらいいのか、絵は絵でしかなく布に絵の具を塗ったものなのだけれど、「見た人の心を動かす」ということに衝撃を受けたんです。

「自分もキャンバスに描いてみたい」

それは、心の奥底でずっと思っていたことでした。

絵画は自分のなかで巨大なものとして認識していたため、専門的な美術教育を受けていない自分が画家のように描けるわけがないと決めつけていたんです。

それは突き詰めていくとアート業界における価値観や権威などの話にもなってくるので、今は置いておきます。

とにかく「もっと自由でいいよね」と思って画材屋を調べて向かい、油絵の具の初心者セットとキャンバスを購入しました。

その後、アルバイトしていた制作会社の経営が悪化し、33歳で無職になります。

オーケー、余裕(足が震えています)

絵描きとして生きると決めて40代で退職しフリーランスになる

初めての入選と販売

とにかく絵を描きまくりました。

さまざまな画材を試し、アクリル絵の具が自分に向いていると感じてメインに使うようになります。

詳しい知識もなく好きに描いているところで、絵にも公募があることを知ります。

試しに送ってみると、驚くことに入選しました。

ウッドパネルにアクリル・色鉛筆・オイルパステル

上記がそのときの絵です。

上手な絵ではないですが、構図が良いといっていただけました。

絵は上手い下手だけではない、という一例になれば幸いです。

その後も、展覧会などに応募するなどして活動を続けます。

また、絵の販売サイトがあることも知り、試しに売ってみたところ数枚の絵が売れ、オーダーをいただくこともできました。

自分の絵に需要があったということが重要で、価格は気にしていませんでした。

ふと、小学生のころからやっていることが変わっていないと気づきましたが、もはや笑うしかありません。

ハハハ、ハハ…

画家として生きて行く

しかし、仕事をしなければ生活はできず、どうにか就職しました。

日勤と夜勤を繰り返す職場で働きながら、断続的ではありますが絵を描き続けました。

睡眠時間が削られる夜勤は身体的にもつらく、「このまま生きて行くことに意味があるのか」と自問自答する日々が続きます。

また、会社員がどうしても肌に合わず、収入は安定するけれど精神的にはずっと苦しい状態でした。

そういった気持ちは帰国してからずっと抱いていたことで、もうごまかせなくなっていたのです。

酒量は増え続け、体調も優れず、このままだとアルコール依存症や鬱病になることは免れない現実に感じました。

有限のある時間をダラダラと消費するような生き方はもうやめよう。

そう決めて、40代で会社を辞めました。

「よくあるミッドライフクライシス(中年の危機)なんじゃないの?」

そう言われたらそうなのかもしれませんが、それでも新たな一歩を踏み出すことに後悔はありません。

当サイトの運営目的

わたしは、40歳を越えてから画家として生きて行くことを決めました。

フリーランスになった直後はWEBライターをしながら絵を描き、徐々にアート活動を中心にしていきました。

何歳からでも、独学であっても、新しい生活を始めることは可能です。

当サイトを通して、「このままでいいのかな」「好きなことで生きていきたい」とお悩みの方へ、なにかしらのお手伝いができればと考えています。

画家になるためのヒントやブログサイトの作り方、作品を販売するための仕組みなど、役立つ情報を発信していくつもりです。

人生は一度きりなので、できるだけ後悔なく過ごせるようにがんばっていきましょう。

最後まで読んでいただきましてありがとうございました。